30代半ばで小児科医に。「働く親目線」の診察が地域医療を救う

異色の経歴を持つ熱血小児科医が治療にあたるアットホームなクリニック


▲わかば子供クリニック 院長 宮沢 啓貴先生

川崎市中原区にある「わかば子供クリニック」は、長く地域に密着したクリニックとして愛されてきました。

その医院を前院長から引き継ぎ、2016年に院長に就任したのが宮沢啓貴先生です。

幼少期から「病に苦しむ人を助けたい」と医療の道を志し、30代に半ばにして小児科医へと転身を遂げた異色の経歴を持ち、夢を叶えた今も、日々、「子供たちの健康を守りたい」「地域医療に貢献したい」と真摯に診療に当たる宮沢先生の熱意の源とは?

幼い頃の経験が、医療の道を志すきっかけに


――医療の道に進もうと思われたきっかけを教えてください。

幼少期に身内が幼くして亡くなるという経験をしました。家族にとって例えようのない深い悲しみの記憶は、今でも鮮明に自分のなかにあり、「悔いなく生きていくこと」こそが、自分が一生をかけて貫くべき信念だと感じています。

そうでないと、亡くなった人に申し訳ないという思いは、今もなお、私自身が人生の岐路に立ったときに真っ先に思い浮かびますね。そういった経験から、幼い頃から新薬の開発に携わりたいと夢見ていました。

今まで治せなかった病気を、自分が開発した薬で治せるようになるかもしれないと思いました。その思いを胸に、親元から離れて暮らし、自分自身の力のみで生きていきたいと考え、北海道大学の薬学部に入学しました。

当時はバブル崩壊直後の経済混乱期で、国立であればアルバイトや奨学金を借りながら何とか自活できるのではないかと考えたからです。北海道は自然に囲まれ、食べ物がおいしいことへの密かな期待もありました(笑)。

 

――30代で医学部に編入されたのはなぜですか。

卒業後も大学院や研究員として在籍する道もありましたが、家庭の経済的な事情で、地元に戻り、横浜市の薬剤技官となる道を選びました。

最初に勤めた小児病院では、薬剤業務の傍ら、こどもたちとの関わりもあり、それなりに充実していましたが、その後異動した検査施設は、最新の検査技術については学べたものの、自分が望んでいた臨床からは離れた業務内容でした。

薬剤師としてのキャリアを積む一方で、このままで良いのだろうかという思いが募り、10年目という節目に医学部を目指すことを決意しました。当時33歳だった私は、すでに結婚し、こどももいましたので、「仕事を辞めて学生になる」というのはとても大きな決断でした。

しかし、小児科の医師になりたいという思いに迷いはありませんでした。妻の兄もかつて医学部生の時、震災で亡くなった過去があり、義兄と同じ道を進むことに対し、妻をはじめ家族が理解してくれたことも大きな心の支えになりました。

働きながら、社会人専門の医学部編入のための予備校に通い、 学士入学制度のある島根大学医学部の門を叩きました。それが34歳の時です。在学中は僻地医療の一端を担いたいと考え、現地の薬局でアルバイトをしながら通学しました。その経験は現在の診察や薬の処方にも大いに役に立っています。

▲キッズスペースには宮沢先生セレクトの絵本が(わかば子供クリニック 川崎市中原区)

38歳で小児科医デビュー!「親の視点」を忘れない治療が魅力


――小児科医として、どのようなスタートを切られたのでしょうか。

大学を最短の4年で卒業し、38歳のときに小児科医としてのスタートを切りました。

横須賀労災病院での研修医時代には、1時間に救急車が5〜6台来る環境の中で、1分1秒を争う緊急性の高い患者さんを治療するのはとてもやりがいのある毎日でした。その後、横浜市立大学医学部に入局させていただき、横浜医療センター等で小児科医として勤務し、アレルギー外来や食物経口負荷試験なども担当しました。

そのなかで「わかば子供クリニック」の理事長に声をかけていただき、院長となって2年半。地域の方の安心につながるクリニックでありたいと常に考えています。現在は小児科専門医、アレルギー科専門医として、治療にあたっています。

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