「啐啄同時(そったくどうじ)」で 子どもの未来を紡ぐ
教育の世界に限らず、日常場面でもよく引き合いに出される言葉に、「啐啄同時」という禅語があります。
啐啄同時とは文字通り、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをすることを意味します。
これが「啐」と「啄」の関係です。互いが響同=協同し合った時、新しい何かが誕生するのです。
ドイツの教育学者J・F・ヘルバルトは、このような双方向的な関係性に必要な概念として「教育学的心術=タクト」、つまり指導者の子どもに対する応答力の大切さを唱えました。
この教育的タクトは鳥に限らず、教師と子ども、師匠と弟子、親子の関係にもそのまま当てはまります。
特にこれからの共生社会に生きる子どもの教育に思い致すと、教え教えられるフラットな関係性として心に響く言葉でもあります。
昨今の教育界では「アクティブ・ラーニング」とか、「主体的・対話的で深い学び」といった言葉がもてはやされています。
つまり、学ぶ子どもの自主性を大切にするといった意味です。そんなことは「不易」として古来より大切にされてきた事実です。
しかし、改めて“Active Learning”といった横文字に置き換えられて「流行」として喧伝されると、あたかも救世主の言葉のように響いてくるから不思議です。
そうなれば当然のことですが、子どもに何とか学ばせたいと願う教師、指導者、保護者はこぞって「それっ!」と慌てて飛び付くといった洒落にもならない「流行」が蔓延することとなります。
そんな時、「流行」の対極にある「不易」とはいったい何なのかと自問することは必要ないのでしょうか。
そんな自問をする時、「啐啄同時」という禅語が重なって響いてきます。
今日の子どもたちに求められる学力は、グローバル・スタンダードとしての資質・能力形成です。
子どもがただ学ぶだけでなく、学んだことを基に何ができるかを考え、それを自分の生き方に収斂させていくといった「生きて働く力」です。
こんな学びの力を培っていく際は、やはり教師、指導者、保護者の出番です。
子どもが興味・関心をもって自分から学びたい、やってみたいと一歩踏み出した時、そのタイミングを捉えてその意欲に寄り添ってやることが何よりも大切なのです。そうです。それが「啐啄同時」の教育です。
お話
國學院大學 人間開発学部長 田沼 茂紀(たぬま しげき)教授
新潟県生まれ。専攻は道徳教育学、教育カリキュラム論。公立学校教諭を経て高知大学教育学部助教授、同学部教授。2009年より國學院大學人間開発学部初等教育学科教授。2017年より現職。