『午後の散歩道』に、ようこそ!
ついに始まりました、我らの新時代、『令和』◎
「なんだかまだ、ピンとこないのよねェ」
「ていうか、それほど興味ナシ」
なんてつぶやいているアナタ。イエイエ、私たちは誰1人残らず、時代というおっきな船に乗って生きているのです。 そこから逃れられないのなら、楽しんだほうがいい。
散歩道は令和の船出を皆さまと共に楽しみたい♪というスタンスでお送りいたします。
ということで、令和初の散歩道は、その名前のルーツ『万葉集』についての特集!
昔、古文が苦手だったアナタも、きっと今日から「万葉集推し」になる、と信じて、いってみよう!
令和の由来は『万葉集』!
1. 始めの1首は天皇の「プロポーズの歌」!
万葉集は日本最古の歌集。
というのは知っていたけれど、それ以上のことはよく知らない、という方(私も)のために、ネットで調べられる程度の情報をここに挙げてみると。
万葉集に収められた和歌の総数は約4,500首。
全20巻にも及ぶ壮大な歌集である。
歌の形は、誰もが知ってる 五・七・五・七・七の「短歌」から
五・七・五・七を繰り返す「長歌」など、さまざまなものがある。
歌を作った人は、天皇から貴族、武人、防人(さきもり・自衛隊の隊員みたいな人) から作者未詳の一般庶民まで。
歌った人の貴賤を問わず、優れた歌を集めたというところが素敵なのである。
作られた時代は、7世紀から8世紀の後半にかけて。
万葉集は、長い年月にわたり、様々な人々の手により 編纂(へんさん・本として まとめる)された歌集だが、その時代のベストアーティストともいうべき、三十六歌仙の1人、大伴家持(おおとものやかもち)がその中心的人物であったのは確か、とされている。
ちなみに家持は、『令和』のもととなった「梅花の宴」の序文を書いた、大伴旅人(たびと)の息子である。
日本の美しい風景が、万葉集を生み出した
さて、基礎知識はこれぐらいにして、じゃあ万葉集の、最初の1首はどんな歌?
と、角川ソフィア文庫の「現代語訳付き 万葉集」を開いてみると…
なんと、天皇の妻問い(プロポーズ)の歌だった!
籠(こ)もよ み籠持ち
掘串(ふくし)もよ
み掘串持ち この岡に
菜摘(つ)ます子
家告(いえの)らせ
名告(なの)らせね
そらみつ 大和の国は
おしなべて
我れこそ居(お)れ
しきなべて (後略)
( 1 雄略天皇)
ステキなカゴとシャベルを持って、
この岡で若菜を摘んでいるお嬢さん♡
どこのおうちの子? お名前は?
ボクはねぇ、広いこの国を治めてる
天皇なんだ。 だから教えてよ
キミのおうちと名前を教えて
名前には、そのものの霊魂が宿っていると考えられていたこの時代、異性に名前を聞くことは求婚、そして名を答えることはプロポーズを受け入れるということだった。
岡で若菜を摘んでいる可愛い女の子にプロポーズをするなんて、一見 牧歌的な風景だけど…んもう!
雄略天皇ったら、自分の地位を利用して、菜っぱを摘んでる何も知らない女の子にいきなり求婚するなんて、今の世ならセクハラ・炎上にもなりかねないグイグイ系の男子だったのねぇ。
これが 日本最古の歌集のファースト・ソングなのである。
ね? ちっとも堅苦しくないでしょう?
あ、ちなみに現代語訳は、私が散歩道風にアレンジしたものなので、お気楽に受け止めていただけるとありがたい。
2. 万葉のミューズ 額田王(ぬかたのおおきみ)
4500首余りの膨大な歌集『万葉集』で、私が唯一、暗記しているのは超有名なこの歌。
あかねさす
紫野(むらさきの)行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
( 20 額田王)
美しく紫に輝く紫草の、立ち入りを禁じられた野原を行くところを、野の番人に見られてしまうじゃないですか。そんなふうに、あなたが私に袖を振ると。
歌の作者は、飛鳥時代の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)。
大化の改新で日本の礎(いしずえ)を築いた天武天皇と天智天皇という、二人の兄弟天皇に愛された、万葉ワールドのミューズ(女神)である。
紫に染まる野原を歩いた額田王。
この歌が詠まれたのは、天智7年5月5日。薬草を摘む宮廷行事を終えた 宴の時。
歌の返歌として、大海皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)は、次の歌を詠っている。
紫草(むらさき)の
にほえる妹(いも)を 憎くあらば
人妻故に 我れ恋ひめやも
( 21 大海皇子)
紫草のように美しく香り立つあなたが憎いのなら、どうしてボクは人妻なんて恋するものか。好きだ、大好きだ~!
野守っていうのはつまり夫、天智天皇のことだよね。
えー。ちょっとマズイよ夫の前で公然とそんな歌~。今なら文春砲がさく裂しちゃうような 危険な三角関係じゃあ ありませんか!
しかし、文献を読むと、この歌を詠んだ時、大海皇子は40才、額田王は35才のいいオトナ。今と違ってその時代では色恋沙汰にはならない年齢の二人のやりとり。
昔、夫婦だった二人が、酔いのまわった宴の貴族に「ヒューヒュー♪」とハヤされて歌った、うるわしくもホロ苦い大人の恋の相聞歌(そうもんか)なのである。
一夫多妻、男尊女卑が一般的だった世の中で、二人の支配者に愛され、権力争いや内乱に翻弄されながらも、こんなふうに艶やかな歌を詠んだ額田王は、日本史上でも他に例をみない、カッコいい女性だったのだと私は思い、心密かに憧れているのである。
3. こんな歌もある『万葉集』の裾野
天皇のオラオラな妻問いや宮廷のめくるめくロマンスだけが万葉集の歌ではない。
猛々しい戦の歌から庶民生活のふとした出来事を詠った歌まで、その裾野は広い。
そのなかで私がおススメしたいのは、子どもを思う、母の歌。
旅人の 宿りせむ野に
霜降らば
我が子(あがこ) 羽(は)ぐくめ
天(あま)の鶴群(たづむら)
(1791 遣唐使の母)
旅人が宿る野に、もしも霜が降るようなら、どうか我が子を羽で包んでおくれ、空をゆく鶴の群れよ。
渡りゆく鶴に、思いを託す母の心
この歌は、天平五年、遣唐使の船が難波(今の大阪市)を出航する時に、随行員の母親が贈った歌である。遠い異国で冬を迎えることになる息子が、寒さに震えないよう、暖かい鶴の羽に包まれて眠れますように、という子を案ずる母の切ない思いがこもった一首だ。
万葉集には、このように名もなき人々の尽くせぬ思いを綴った歌がたくさん入っているのだが、ここで一つ、とっても意外な歌を紹介しよう。
多摩川に さらす手作り
さらさらに
なにぞこの子の
ここだ愛(かな)しき
(3373 東歌(あずまうた))
多摩川にサラサラと晒す手織りの布じゃあないけれど、今さらながらに、どうしてこの子はこんなに可愛いのだろう。
東歌とはその名の通り、東日本の関東地方で詠まれた歌のこと。
しかも詠まれているのは多摩川、散歩道のご近所の歌じゃないですか!
当時、武蔵の国では手織りの麻布が特産で、これを朝廷に調(税)として献上していたという。麻布や調布、という地名は、ここからきているというから歴史と地名の関係は面白い。
歌が詠まれたのは、この辺りかもしれない
そして壮大な万葉集の最後の歌は、大伴家持が詠ったこの歌だ。
新しき 年の初めの 初春の
今日降る雪の
いやしけ吉事(よごと)
(4516 大伴家持)
新しい年の初めの、初春の今日、降る雪のように、よい事もたくさん降り積もれ。
さて、令和最初の散歩道的『万葉集』のすすめ、いかがでしたか?
万葉集には他にも、愛する人の死を悼む歌、酒や料理の歌など、実に多彩な歌が収められていて、それらを一つずつ読んでいると
なぁんだ、人間って昔からちっとも変わってないじゃない。
ということがわかってくる。
だから時代が変わっても、私たちは万葉集が生まれたこの日本で、笑ったり怒ったり、愛したり憎んだり、散歩道でお茶を飲んだりしながら、次の世の人々にバトンを繋いでいけばいいのである。
みんなで楽しく『令和』を歩いて行きましょう♪
万葉ガールは、とってもオシャレ♡